自分と繋がる時間

夏の盛りに満開になる可愛いチコリの花。先週まで北の田舎道に咲き誇っていたが、昨日1週間ぶりに来てみたら、跡形もなく消えていた。秋がすぐそこまで来ている証拠だ。


夜は10℃近い日もあり、すでに秋の虫の声も聞こえる。夏がいかに短いか、この時期、毎年実感させられる。

去年、それまで躊躇していたブログを始めようと思ったのも、こんなヒンヤリした夜だった。美しい月光の下でヨガをやりながら、何となく「タイミングが来た」ような気がした。


そして1年。長く書いていたNY時代から数年のブランクがあり、自分の内面も変化していたので、正直続くかわからなかったが、結果して1周年を迎えることができた。

今日が52本目、つまりちょうど週に1本書いてきたことになる。実は、そのペースは意識して保っていたものだ。

それは、あまりにイレギュラーな生活・仕事時間の中で、何か定例で続けることによって、自分のリズムというものを作り出そうとした、ひとつの工夫であった。

事実、定例で何かやると、それらは生活の「軸」となり、スケジュールの組み方や集中力にメリハリがつく。

そしてその定例なものが「自分と繋がることのできるもの」ならば、メンタルにもいい効果だ。

それまでの数年、時間も空間も公私が混ざり、いろんな外野のことに振り回されていた私。

自分とキッチリ繋がることができない状態はある意味危険で、他人の意見に左右されたり、自分の決断を疑ったり、時間やお金を無駄に使ってしまったりの悪循環にはまる。

しかし今は、定期的にヨガやピラティスで心身をリフレッシュし、近所のカフェでTo Doを整理、そしてブログを書くことで自分の気持ちや意志を確認し、不規則な環境の中でも、ある程度は自分と繋がることが出来るようになってきた。


ところで、「自分と繋がる」とは?

それは、意識をどんどん掘り下げて、自分が本当に何をしたいか、あることについてどう思うか、などを自分自身に問いかけ、その答えに沿うこと。また、いろんな考えで混乱した時、自分の基準に戻って整理し、もう一度ポジショニングをするようなこと、だと思う。

そういった頭の中での問答は、誰もが、例えば運転中とか入浴中とか寝る直前にふと起きるものだが、私は書くことによって、より深く、深く、自分に潜ることができる。

具体的にどういうことが起こっているかと言うと、、、いったん何かについて考え始めると、あれこれ整合性もなくポンポン考えが浮かんでは消えていく。

その時の状況といったら、ババババッと頭の中でスキャニングが起こっているようなもの。あるいは、インターネットやデータベースでの検索のように、何かにアクセスしてはレスポンスを待つ、それをすごいスピードで繰り返すというか。

その過程で降りてくる言葉のピースは意味があるような気がするから、私は出来るだけ書き留める。が、、、意識のスピードの方が速いし、閃きや言葉はどんどん溢れてくるから、速記のようにがーっと走り書きしても、手がついていかないことも。

その後、走り書きのピースをパズルのように組み立てて文章にしてアウトプットする。すると今度は客観的な意識が働き、今組み立てたばかりの文章の中で矛盾や偏りが無いかの確認が始まり、不完全な部分があればまた脳内スキャンに戻る―。

そんな一連の作業(現象?)の間、私はものすごい集中状態に入り、寝食を忘れ、周りの音が聞こえなくなる。(聞こえてはいるけど意識から外れる。)目先の心配事や現実的な雑務も一時的に忘れる。

まるでその間、脳がどこかにトリップしているかのように。あるいは自分の意識が、シールドされたホットライン(専用線)でどこかに繋がったように。

これって、もしかして、イタコや霊媒師の「口寄せ」、ヒーラーの「チャネリング」のようなもの?(笑)


それは、何も自分の人生について考えた時に限らず、仕事のドキュメント作成や学校のエッセイだとか、とにかく考えを巡らせたり、アイデアを集めたり、何かを考察して文章にまとめる行為の時は、いずれもその状態に。

以前、大学の論文で、20時間近くぶっ続けで書き続けたことがあった。空腹も睡魔も感じず、集中していて時間の経過さえ知らなかった。

「カオスの中の意識を引っ張り出して、自分あるいは他人が認識できる形で表現する」

という意味では、アーティストが作品を生み出す過程にも似ているのかも?それが「クリエイティブ」ということなのか?


先ほどのイタコにしても、彼らは意識の世界や宇宙と問答し、私たちにわかる言葉で伝えるではではないか。イタコが他人のために死者とチャネリングするか、私が私のために私の意識とチャネリングするかの違いだけだ。

というのは、ちょっと飛躍しすぎかもしれないけど(笑)、要は、唯一寝食を忘れ、我も忘れ没頭するのは「書くこと」だけだから、きっと私にはすごく重要な方法なんだろうな、と思うのだ。

実際ブログを再開してから、何か拠り所的なモノと「繋がっている」感覚がある。まさにそれが「自分と繋がる」ということであると同時に、超意識=宇宙と繋がる、ということなのかもね。(ますますイタコ的!)

だから、媒体の種類や公開の有無はどうであれ、自分のために常に何か書いていきたいな、と思っている。


ところで以前の私は、その自分との問答において、ある程度狙い定めて答えを探しに行き、何かしらの結論を出したものだった。しかし今は、答えが見つからなくても、ニュートラルなまま、空白のままでいいや、と思っている。

あるいは、特定のトピックで考え始めたけれど、全く関係ない想像に頭が持って行かれたり、脈絡ないアイデアが飛び込んできても構わない。

むしろ、自分の意識からだけでなく、意識の外から、何か偶然・自然に面白いものが入ってくるのを待つフシもある。ネットサーフしてるみたいに。


前に少し書いたが、占いの類がそれに当たるひとつかもしれない。自分の思いつかないアイデアや物事の見方がそこにあって、その意外性が面白いのだ。

自分は意識していないのに、シンクロニシティが起こって気づかされる場合もあるだろう。おっ、これは何か意味があるぞ、と。

とにかく、カオスの中にうずもれた意識はいつも明確じゃないから、私が無理につかまえようとしなくても、ピースとピースが勝手につながり、あとで意味がわかることだってあるのだ。それはそれで未来のお楽しみだ。

大事なのは、その時に自分が何を感じたか、何を思ったかを書き留めればいいわけで。それは決して不完全な記録ではなく、自分の認知や自分の変化を書き留めた、ひとつの立派な記録。

写真も然り。撮影したその一瞬を選んでいるのは、自分がそこに何かを感じたから。

インターネット上のビッグ・データのように、そういう記録がたくさん集まったときに初めて、自分も知らない自分の真実が浮き上がってくるだろう。


ということで、また徒然とマイペースで、基本自分がわかればいいや、で書いていくつもり。だって、自分のためのブログだもん(笑)

それでも、もしお付き合いいただける方がいれば、また1年、どうぞよろしくです。

それにしても、文中ときどき例えた通り、意識の概念は、ウェブ(インターネット)の概念に良く似ている。こんなトピックでもまたいつか書こう。


2017.8 ブログ1周年を記念して。


コメント

  1. 一周年記念おめでとうございます。Colorsの時は自分がNYにいた頃のことと重ね合わせていつも興味深く拝見していたので、終わってしまったときはとてもがっかりしたものでしたが、Yasukoさんがまたブログを始められてよかった。NY、カナダの夏は短いですね。これからも楽しみにしています。

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  2. 公開・返信が遅れてごめんなさい、1周年メッセありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします!
    おっしゃる通り、夏は短かったです、、、。今日はそんなブログをアップしたところ。

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