レイと「子ども」について語り考えたこと (2)

(前回からの続き)

もう過ぎたこととはいえ、レイは不妊治療や子どもについての葛藤を私に話すのは決して簡単ではなかったはずだ。だから、それに真摯に応えるために、私は自分の「子ども観」を語らねばならないような気がした。

といっても、これまで自由奔放に過ごし、子どもを持たなかった私にそんなものはないのだが。だから、結果して私は、同時通訳をするように、自分自身に回答を求めながら彼に話すことになった。

「私に子どもはいない。実は、昔から子どもが欲しいという強烈な想いがあまりなくて、、、。」

と、まず口から出て、その後「ああ、そうだ、そうだったよな。」と、頭の中の別な自分がうなずく。そんなことを考えたのはいつかも覚えていないくらい昔だったから、記憶の方が遅れてついてきたのだ。 

そして言ってしまってから、子どもが欲しくても出来なかったレイに、おそらく身体的には子どもを作れたであろう私が「あまり欲しくない」と言うのはよくなかったかな、もうちょっとマシな言い方はなかったものかと、一瞬悔やんだ。

しかし、そんな心配をよそに、少し前まで、一般的にも動物的にも子どもを持つことは当然のこと、という認識であったレイは、なぜ私がそう思うのか、むしろ興味が湧いていた。

なぜ?

うーん、私にとってはそれが「自然」だったのだ。そうとしか言いようがない。

少し前に、日本の雑誌で女優・山口智子が「子どもを持たない選択」という内容の記事で話題になった。また、女性の社会進出が進み、子どもを育てる以外のやりがいを選ぶ女性が増えたとか、そういう話もある。

しかし、私の場合そういう現実的・社会的な考えから来ていない。あるいは、自分の意志で決めたとか、ある理由があって持たない決断をしたとか、そういうのともちょっと違う。そもそも選択肢という次元の事柄でないというか、、。

誰かを好きになったり、付き合ったり、やきもちを焼いたり、一緒にいろんな経験を楽しんだり、そういうことはあっても、子どもを持つとなると話は全く別。急に縁遠い、私が属していない世界のように感じてしまう。動物的にはもちろん不自然なことかもしれないけれど、実際そうなのだ。

レイが私の話を待つたった数秒の間、私の頭は、こうしていろんな思いを辿りながら答えを探していた。なにしろ自分だってまともに追究したことないんだから。

「ひとつ言えることは、、、」また同時通訳で、遠い自分に尋ねながら答え始める。

「子どもは私にとってあまりにも神聖で、そんな大それたものを持つ資格は私にはないような気がする。」

「ひとたび子どもほどの大事なものを持ってしまったら、私は同時にそれを失う恐怖をずっと抱えてしまうことになる。子どもを世話するための時間的な縛りは必要なものと割り切れるが、私はその精神的恐怖の縛りにはきっと耐えられない。」

「子育てにおいては失敗は許されないというプレッシャーもある。この点ちょっと完璧主義入ってるかもしれないけど、私はきっと全身全霊で、気を抜くことなく子どもの世話をしたり考えたりしてしまうだろう。実際そこまで必要なくても、責任感の強い私は、自分で自分を24時間縛ってしまいかねない。」

私からそういったいくつかの理由が出てきた。

そしてすぐに、今世話をしている犬の「浪人」を思い出した。

犬と人間はもちろん違うけれど、赤ちゃんのときから育てているから、それは私にとっては擬似ママ体験。確かに常に彼を想い心配している自分がいるから、「子ども=失う恐怖」があるのは、実際に経験してみた今でも変わっていない。

しかし、浪人を通して、以前の私では思いもつかなかったポジティブな体験もある。かけがえのない強い絆、愛情、生命に対する神秘的な気づき。

その点においては、子どもを持つ中で素晴らしいことはたくさんある、という認識に今では変わっているし、他者のケアができるようになった自分は少しは成長したと思う。今なら育児も何とか出来るんじゃないかなんて気もする。

だからと言って、(自分が産む産まないとか経済的なこととか別として)今から子どもが欲しいかと言うと、やはり急に雲がかかるように、イメージがわかなくなる。

最初に私がレイに言った「あまり欲しいと思わなくて」も、厳密に言えば正確な表現ではなく、実際は子どもについては、『私自身が決めたり考えたりできる域の外にある事柄』、ということなのだ。

「子ども=神聖すぎ、恐怖」という理由だけでなく、そのことこそレイに伝えたかったのだが、結局うまく言葉にできなかった。しかし、レイは「わからなくもない」と言ってくれた。「理由はどうであれ、欲しくない、あるいはわからない、という人はあなただけじゃない、結構いるもんだよ。」と。

「実は最近になって、もともと自分も子どもがすごく欲しいわけじゃなかったことを思い出したんだ。」とレイ。

「自分や奥さんの親からのプレッシャーがあったわけでもない。それなのに、友達の子どもたちを見て、自分で自分に、『結婚したら当然子どもを持つべき』という観念を植え付けていたんだよね。結婚したら、ちょっといい車や家を買うように、子どもも『結婚パッケージ』の中のひとつだった。そうやって思い込んでいたんだ。だけど、もうそんな考えには囚われない。」

すでに舵を切って新しい方向へ漕ぎ出している彼の顔は明るかった。

その後、私からそれ以上の答えが出てこないと察したのか、レイはとてもさりげなく、会話を仕事や次のサークルのイベントの話題に変えていった。私たちはしばらく話をして、じゃ、またお互いイベントで会った時はよろしくね、と言って別れた。

しかし、帰り道、私の思考は運転しながらも、「子どもについて」に引き戻されていた。

私にとって、子どもとは、、、?

子どもが嫌いというわけでもない。現に私は以前、子どものサマーキャンプの仕事を何年も手伝っていて、子どもの可能性や創造力、想像力にはいつも驚かされていた。

子どもから学ぶことはたくさんあったし、いまの犬の浪人もそうだが、子どもが知識を得て成長していく過程を見るのは、とてもエキサイティングだ。

また、子どもが幼い頃にいい経験をしたりいい教育を受けることは、最終的に彼らが大人になった時、彼らがいい世の中を作るキーになるとも思っている。でも、でも、自分が子どもを持つ話となるとやはり別。

まあ、無理にハッキリさせることでもないし、自分で産んで育てていない以上、いくら考えたところで完全な答えには辿り着けないだろう。

だけど、しいていえば、、、これは本当にただ漠然と思うのだけれど、もし、誰もに「今世でのミッション」というものがあるとするならば、私は今世では、子どもとか、いわゆる一般的な家族の形をとること自体は目的やゴール、あるいは必ず手に入れなければならないものではないんじゃないかと。

言い換えると、何かメインの目的があって、それに付随してくることはありえるが、子どもや家庭そのものを追うことはないだろうと。(じゃあ何がメイン?というと、そっちの方がもっとわからないんだけど。(苦笑))

ただ、それはあくまでも過去と現在の自分をベースに漠然と思うことであって、未来はいくらでも変わり得るとも思っている。だから今感じていることによって自分に制限を設けるわけではない。

ここからは子どもに限った話ではなく、拡大して考えてみるのだが、子どものような「気持ちをわしづかみに持って行かれるもの」「失いたくないもの」は最初から持ちたくない、それによって束縛されたくない、失う恐怖や悔しさの可能性自体持たずにいたい、という私の今までの考え。

これは基本的にモノも然りで、あまりにいいもの、高級なモノ、大事なモノは、持った瞬間、失う恐怖も同時に持つから持たない方がマシ、という考え。(立派なお皿をもらって、壊すのが怖いから使わずしまっとくのがいい例。)

これって実は、自分の隠れた臆病さや悲観的な部分を物語っているんじゃないだろうか。

しかし、今の私は、こういう部分は、いくらでも変化しうるし、自分から変えてみたっていい、と思っている。

例えば、「いや、それだけ大事だからこそ、一緒にいる瞬間が素晴らしくかけがえのないものであり、自分が頑張れるパワーの源に成り得る」「それだけ自分をコミットさせることで、本当の意味での責任を持つ」というような、ポジティブな考えに変えてみたらどうだろう?避けていたものを恐れずに思い切って受け入れてみることで、もしかしたら、何か今までと違う体験ができるのではないか?

また、物事は表裏、陰陽といった相反する事柄がセットで在るもの。その原理をもってすれば、何か大事なものを手にして失う恐怖があっても、それと同じくらいの喜びもそこにあるはずなのだ。陰だけを見るのでなく、肝心なのは物事をフェアに見る目なのかも。

そして、陰の要素も陽の要素もセットでその相手(モノでも人でも動物でも)とシェアしたり、交換したり、さらには一緒に「時間」というものを経て、新たな価値や愛着が生まれていくのだろう。

こんな風に考えるようになったのも、やはり浪人と接しているからだと思う。「子どもとはなんぞや?」について、私は皮肉にも、ある種自分の子ども=浪人から、すでにたくさんの気づきをもらっているのだ。だからこの先も、子どもに対する考え、大事な人やモノに対する考えは、いくらでも変わりうるし、その他のことにしたって、過去の自分の考えにとらわれる必要も全くないと思っている。

さて、このレイと会った日を振り返ってみると、、、レイと話したことで、私は予期せず子どものことや浪人から学んだことが頭の中で整理でき、さらにはそれらを基にした普遍的な気づきがあった。

実はレイには、普段人には話さない、ここ数年抱えていたストレスについてもいつの間にか話していたので、ちょっと気持ちが軽くなったりもした。初めて会ったのに、こういうことをするりと話せる人っているんだな。ほとんど他人だからこそ話せたのかもしれないけど。


そしてレイもまた、子どものことや鬱状態で苦しんだことを奥さん以外の人に話したのが初めてだった。今思えば、まるでお互い、必要としていたセラピーをしあったような、そんな不思議な感覚が残る。

レイとはまたイベントで顔を合わせるだろう、でもお互い子どもや私のストレスの話はもうしないと思う。ただサークルの仲間として、純粋にアクティビティを楽しむだけだ。


私たちが話したことはもう通り過ぎたことであって、今はお互い新しい想いの中で、前に向かって歩き出しているから。


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