冬の木々たち

北米の北東側は、今週前半スノーストームで大荒れ。しかし、元々私のいるところは雪嵐があろうがなかろうが、3月というのはまだ『真冬』の範疇。最高気温が氷点下の日だってまだ多い。


10月半ば~4月半ばの間は寒く、雪が降る季節だが、数えてみたら1年の半分は冬ということじゃないか!2月後半くらいからうんざりしてきて、3月には「このまま永遠に春が来ないんじゃないか」と思うくらい、これでもかと寒さと雪の厳しさを思い知らされる。


それでも、最近、ひとついいことに気づいた。それは、冬の木々たちが、冬にしかない美しさを見せてくれているということ。


針葉樹が、冬の間も生き生きと緑をキープして白い雪とのコントラストを見事に見せてくれるのはもちろんだが、今回改めて魅せられたのは、葉っぱのないハダカンボウの木たち。

彼らの枝ぶりの全貌がちゃんと見られるのは、考えてみれば葉のない冬の間だけなのだ。春になれば葉に覆われ、実は個性ある独特の曲線は見えなくなってしまう。


暖かい春の陽気、活力ある夏の陽射し、清らかな秋の空気。それらの季節に認識する、色や香りや眩しさをまとった美しさもいいが、冬は「無」によって、物事の一番基本的な、素の姿を映し出してくれる。

下の写真は、北の職場に行く道にある大きな大きな木。バランスのとれた枝の伸び方とその曲線の美しさに妙に魅かれて、車を停めて見入ってしまった。水分を保った焦げ茶色の幹や枝と、鉛色の雲が結構マッチしてる。


これも北の運河沿いにて。朝日に照準をあてて撮ったのだが、あとで見たら松の枝ぶりがいい味出してる!


そして、11本ランダムに伸びる枝も、木全体でみると計算されたような「しっくり」くる美しさがある。それらが映し出す影もまた素晴らしい。



冬でなければわからないことがある。冬だからこそわかることがある。

これを人生のレッスン的にとらえれば、一見何も進展がなかったり、何もいいことが見えない状態でも、それだからこそ気づくことがあるのではないか?ということ。ひとたび何かが動き始めれば見えなくなってしまうけど、静止して深く心を添わせることで見えるものがきっとあるだろう。

以前の私は、真冬の葉のない木が目に留まるなんてことはまずなかった。いや、目で見てはいるのだろうけど、心ではキャッチしていないのだ。(物理的な視野でなく、認識の視野と言えばいいか?)人の視野というものが、普段いかに限られているものか!


自分の物事に対する認識が変われば、実際に見える景色が違ってくるというのは、不思議なようで実際に起こっている。視覚だけでなく、人間の記憶にも言えることだろう。同じ出来事を経験しても、人によって記憶が違ったりすることはしばしばあるから、、、。

私たちはどうも常に何らかのフィルターを通して物事を見ているようだ。(これについていろいろ思うことあるが、とりとめなくなるので、また別な機会に。)

とにかく、木が作り出す自然の形に美しさにうっとりしたこの冬。長い長い冬の中の楽しみをひとつ発見できたことはラッキーだ。





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